Queen(クイーン)とは

クイーンとは伝説のバンド
queen is a legendary band.

フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)
ブライアン・メイ(Brian May)
ロジャー・テイラー(Roger Taylor)
ジョン・ディーコン(John Deacon)

の4人からなるバンド。全員が作曲をしています。

素敵な歴史が多くとてもすべて学習することができないため、まとめながら、そして日々更新していきながら紹介させていただきます!

1971年 伝説の始まり・・・

元々は、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが在籍していたバンド「スマイル」から始まりました。
スマイルはうまくいかず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。
その後スタッフェルの同級生であるフレディ・マーキュリーが加入しました。

1971年3月1日にオーディションでジョン・ディーコンが加入。
1971年に伝説のバンドQueen(クイーン)が結成しました!

Queenの歴史

1973年
7月6日、先行シングル「炎のロックンロール」がリリース
7月13日、アルバム『戦慄の王女』でイギリスデビュー
→ イギリスメディアでは否定的な意見が多かったよう。
曲構成が複雑、レッド・ツェッペリン、イエスの亜流、遅れてきたグラムロックバンドなど…
曲制作からリリースまでに2年近くかかり、レコード契約から1年以上。
フレディ「リリース時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」と回想されていたようです。

1974年
3月8日、2ndアルバム『クイーンII』をリリース
シングル「輝ける7つの海」がヒット
アルバム(全英5位)をきっかけに、本格的なブレイクにつながりました。

10月30日より、アルバム『シアー・ハート・アタック』リリースに伴うツアー開始
11月8日、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』をリリース
先行シングル「キラー・クイーン」全英2位、全米12位とヒット!
フレディは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞!
ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として、バンド初の全米ツアー(ブライアンの体調不良にてツアーは途中降板。)

1975年
2月、カンサス、スティクスらの前座として、再び全米ツアーを開始
ツアー中、フレディは喉を痛めてしまいましたが無事回復。

初来日(第一次クイーンブーム)

イギリスでは既にいくつかの楽曲が全英トップ10に入るヒットを記録
日本での人気はイギリス以上!
1975年4月17日に初来日され、空港には約1200人のファンが集結しパンク状態に…
けん玉で遊んだりして、日本文化を満喫されたようです。
4月18日、ブライアンとロジャーが東京タワーへ観光に行ったところ、100人以上の修学旅行生に囲まれたそうです。
武道館公演では着物を着て演奏されたとか。

10月31日、4thアルバム『オペラ座の夜』、先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が、全英9週連続1位の大ヒットを記録しました。
当初曲が長いということでレコード会社側は曲のカットを指示する。一方で、ラジオDJのケニー・エヴェレットは気に入ったため、なんども流していたという。
フレディはボヘミアン・ラプソディーのヒットにより、2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞!
クイーンに否定的だったメディアからも高く評価されました。

1976年

1976年、2回目の来日

1976年3月22日~5月1日に行われた A Night at the Opera Tourのために来日。
アメリカ・日本・オーストラリアなどで次々とツアーを開催する。

1976年12月18日、初セルフプロデュースした5thアルバム『華麗なるレース』をリリース
前作『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっています。
先行シングルとしてリリースされ、全英2位・全米13位のヒットとなった「愛にすべてを」、
「懐かしのラヴァー・ボーイ」「タイ・ユア・マザー・ダウン」
アルバムの最後には、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録。(1977年に日本限定でシングルカットされた)
イギリスや日本で1位を獲得するヒット作となりました。

1977年
10月28日、再びセルフプロデュースで臨んだ6thアルバム『世界に捧ぐ』をリリース
コーラスパートの全くない楽曲(「永遠の翼」など)も収録
ヨーロッパの中で唯一クイーンが苦手としていたフランスで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位!

1978年
10月28日、アルバム『ジャズ』リリースに伴うコンサート・ツアー(Jazz Tour)開催
初のフランスでのコンサートも開催

1978年11月10日、7thアルバム『ジャズ』をリリース
「バイシクル・レース」のプロモーションで全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を呼び、アルバムリリース直後、マスコミの批判に晒されました。
しかし全英2位・全米6位の大ヒット!
北米ツアーを開催し、フレディーは上半身ヌード姿で自転車に乗って登場しました!

1979年
1月、Jazz Tour ヨーロッパツアーを開催。
ユーゴスラビア(東西冷戦状態)もツアーに入っていたことで話題を呼びました。
1月26日 「Don’t Stop Me Now」シングル・リリース。最高9位。公演先のブリュッセルでプロモーション・ビデオを制作。

1979年4月、3回目の来日

1979年4月13日~5月6日に行われたJazz Tour のために来日。
「手をとりあって」をセットした模様はテレビ局により録画されました。
1979年6月26日、クイーンの初のライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』リリース
8月、ドイツ、サーブルッケンで行われた野外フェスティバルに登場したロジャーの髪の毛の色がグリーンに染められ、終始フレディの笑いを誘ったことがあったようです。
10月5日、14枚目のシングル「Crazy Little Thing Called Love」をリリース
米国では念願の1位獲得!
10月7日、フレディは国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティー特別公演でバレエを踊り、「BOHEMIAN RHAPSODY」「Crazy Little Thing Called Love」をバックに初めて本格的バレエを踊り、大成功を収めました。

※ フィービーとの出会い
パーソナル・アシスタントを務めたフィービーことピーター・フリーストーン。

フレディの最期まで献身的な看護を行いました。

12月26日、カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開催。
フレディー作の「愛という名の欲望」が、バンド初となる全米1位を獲得。

1980年
1月25日 「Save ME」リリース
「Crazy Little Thing Called Love」はメンバーの予想を超えて、世界各国で1位を獲得する。

2月、ミュンヘンにて新しいアルバムの制作。
途中に映画『フラッシュ・ゴードン』のサウンドトラックの録音が挟まった(シンセサイザーを導入したきっかけ)
フレディはケンジントンにある超高級マンションを50万ポンドで購入。将来住む場所と考え、似合う内装に改造。(結局この家に住むのは4年後)

5月30日 、「Play The Game」シングルリリース(はじめてシンセサイザーを導入した曲)
6月30日、8thアルバム『The Game』をリリース。全英・全米ともに1位を記録。(音楽評論家達は恒例行事の如く酷評)

※昔のイメージを好むファンが離れる
・シンセサイザーをふんだんに取り込んだ今回のアルバム(このアルバムから、これまで頑なに使用を拒んできたシンセサイザーが導入された)
・フレディの髭面(「Play The Game」のプロモーション・ビデオに映るフレディは、髪を更に短くし、口髭を蓄えていた)
昔のイメージを好む多くのファンは、このアルバムを機会にQUEENから離れました。
反対に「Crazy Little Thing Called Love」等により、新しい世代のファンの心を掴むこととなったそうです。

 三カ月38カ所46公演に及ぶ北米国ツアー「The Game Tour」開始。
1980年6月30日 – 1981年11月25日と長期のツアーで何度かオフが設けられていましたが、ロジャーだけはソロアルバムの制作をしていたようです。

8月12日、ジョン・ディーコン作の「Another One Bites The Dust」は、ロック、ソウルのジャンルにおいてすべて1位を記録。
米国で二度目の大ヒットになりました。そしてクイーン内での最大のヒット曲となりました!
(もともとマイケル・ジャクソンのために書かれた。彼の前作『オフ・ザ・ウォール』を意識したソウルやファンクの曲となっており、アメリカのブラックミュージックのチャートでも、上位にランクイン)

1981年2月8日、5日間の武道館のみの公演のために4回目の来日

2月12~18日まで、日本武道館でコンサートを行いました。
フレディは買い物をたくさんしたそう。特に帰国前、休業日だった渋谷西武百貨店を貸し切り、ショッピングを満喫したようです。

初の南米進出!
最初のブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロではたった2日で観客動員数の記録を更新するなど、各地でツアーは大成功しました。

同年10月、南米でのツアーを終えたメンバーはデヴィッド・ボウイとの共作「アンダー・プレッシャー」をリリース。イギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど、世界的にヒットした[26]。なお、ボウイとはスイスでのレコーディング中に親交を深めていたという。

さらに11月2日、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』をリリース。クイーンのキャリア前期を総括する本アルバムは現在、イギリス史上最も売れたアルバムとなっている。

1982年10月、5回目の来日

1982年10月19日~11月3日のHot Space Tour のために来日。

1983年、バンドの活動を休止し、各自ソロ活動に専念

1985年5月、6回目の来日

1985年5月8日~5月15日に行われたThe Works Tourのために来日。

1986年マジック・ツアー後よりフレディの体調は悪化。4人が揃ってツアーを行ったのは、マジック・ツアーが最後となりました。その後より長年クイーンとしてのツアーは行われませんでした。

1991年にフレディ死去

フレディの死後、ジョンは音楽業界から退きました。

2000年ごろからは、チャリティ・コンサートなどにブライアンとロジャーの2人でクイーンとして出演していましたが、本格的な活動再開には至りませんでした。

第二次クイーンブーム

2004年、ドラマ「プライド」放映による第二次クイーンブーム
フレディ作曲の「I Was Born To Love You」を主題歌した、アイスホッケーのドラマ「プライド」が放送。ドラマの中ではWe Are the Champions、We Will Rock Youなど、クイーンの曲が多数使用され、事実上のドラマ挿入歌集『ジュエルズ』が発売。クイーンの数々の曲がリバイバル・ヒットし、日本におけるクイーン人気が再燃!

クイーンアルバム「ジュエルズ」とは
日本独自企画のアルバムで、後に台湾でも発売。オリコンチャートで初登場1位を記録し、日本ゴールドディスク大賞受賞、累計で約180万枚の大ヒット!
アルバムのタイトルはブライアンが決めたよう!

2005年10月、QUEEN + PAUL RODGERS (クイーン7回目来日)

  • 10月26日・27日 埼玉・さいたまスーパーアリーナ
  • 10月29日・30日 神奈川(横浜)・横浜アリーナ
  • 11月1日 愛知(名古屋)・ナゴヤドーム
  • 11月3日 福岡・ヤフードーム

ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人は、ボーカルにアダム・ランバートを迎えて、「クイーン + アダム・ランバート」名義で活動している。

2014年8月、QUEEN + ADAM LAMBERT(クイーン8回目来日)

  • 8月16日 大阪:舞洲サマーソニック大阪特設会場(SUMMER SONIC 2014 出演)
  • 8月17日 千葉:QVC マリンフィールド(千葉マリンスタジアム)(SUMMER SONIC 2014 出演)

2016年9月、QUEEN + ADAM LAMBERT(クイーン9回目)

9月21日- 23日 東京・日本武道館

第三次クイーンブーム

2018年、映画「ボヘミアン・ラプソディー」放映による、第三次クイーンブーム
2018年11月9日に公開
2019年5月時点で日本国内の興行収入が130億円を突破する大ヒット!

2020年1月、QUEEN + ADAM LAMBERT(クイーン10回目)

  • 1月25日・26日 埼玉・さいたまスーパーアリーナ
  • 1月28日 大阪・京セラドーム大阪
  • 1月30日 愛知(名古屋)・ナゴヤドーム

2024年
1月17日、日本のファンによる投票で収録曲が決められるライブ・アルバム『絆』がリリース

2023年12月紅白、2024年2月QUEEN + ADAM LAMBERT(クイーン11回目)

  • 2月4日 愛知(名古屋)・パンテリンドーム ナゴヤ
  • 2月7日 大阪・京セラドーム大阪
  • 2月10日 北海道(札幌)・札幌ドーム
  • 2月13日・14日 東京・東京ドーム
われ
われ

クイーンのメンバーは、ツアー以外にも何度かプライベートで来日してくれていたようです。
フレディは美術学校で学んだ経験もあり、伊万里焼や九谷焼などを趣味で収集、目利きをしたり、自宅の庭に日本庭園を造るなど、日本に興味を示してくれていました。
ブライアンは日本の畳が気に入りましたが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという可愛い話をみつけて、はじめて畳になりたいと思いました!!

下記のサイトを参考にさせていただきました。

クイーン (バンド) - Wikipedia

↓ とっても詳しく歴史がまとまっているサイト様です!

QUEEN

コメント

タイトルとURLをコピーしました